今日、その生き方が明日に繋がる。結局つまりそういうこと、うん。

度重なる災害に被災された方々には、心よりお見舞い申し上げます。

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こんにちは、虹恋です。

七夕です。

この雨でささやかな願いすら届けられないのかと思うと切ない気持ちです。

そもそも、晴れた日には天の川がかかり逢える二人。

それに乗じて星に願いをかけていただけなのですが。

考えてみれば、この厚い雲の向こう側はつねに晴れていて。

星も星座も神々もそのままそこにあられるわけで。

純粋に願う幼子の願いは届く気がするのは錯覚か。

自分と天とを遮るものは、雲という名の邪な自分の考え。

 

さて、忘れる間も与えられずに再び襲う災害。

浸水、冠水する映像は恐ろしく。

ただその中でも東日本大震災の時の津波はそれでもなお美しいブルーの色をしていた。

それが印象的だった。

 

近くを流れる川や用水路、湖の水が自分の家に流れこむ。

それはもはやあり得ること。

じゃぁ、その水がゴミだらけだったら。

普段の自分の行動が結局は自分たちに帰ってくるのだとしたら、

今からでも環境問題に取り組む動機になる。

 

自分の勝手な行動が、どこか知らない国の人が困るっていう現実は行動に繋がりにくいかもしれないけれど、この身近な現実は自分の行動を変えるに十分だ。

 

いろいろと願わずにはいられない。

コロナが早く収束しますように

このひどい雨を連れてくる梅雨前線が早く過ぎ去りますように

今年の台風はひどくありませんように

酷暑になりませんように・・・

そもそもこういう事は願いの候補にならない、そんな日になりますように・・・

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心揺らぐアラフォーの私。娘を卒業したのはいつだったのだろうか。

昔、娘だった私。

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こんにちは、虹恋です。

恐ろしい事に、40代が迫っている私。

さて、虹恋の家は3人家族。

私、旦那さん、娘。

食卓をどう囲みますか?

丸卓じゃないですけどね。

娘と2人の時は対面。

そこに旦那さんが加わると。

最近は、私と娘が並び、その対面に旦那さんっていうのが定位置になりつつある。

 

日々成長する娘。

隣に座る娘が日に日に大きくなって。

作法にチクチクうるさい旦那さんが、つまり前から見てるわけですよ。

 

すると、なぜか自分までチェックされてる気になて。

どうなるかっていうと。

自分の子供時代と感覚がリンクして。

どうなるかっていうと。

自分も子供になった気がする!!旦那さんの子供に・・・・

 

・・・

 

「えぇ?!」

自分でもその感覚に若干引きましたよ・・・。

 

これをどうとらえようか。

親としての自覚の無さ?

旦那さんが異性ではなく家族の対象に?

 

夜、ベッドで旦那さんに抱きしめられながら。(あ、同じベッドなんです)

そう感じた日は、なんだか娘が旦那さんによくしてるように

私も旦那さんの手にすりすり顔をすり寄ってしまった・・・。

 

「なんか最近、私 娘と姉妹になった感じがする」

 

うまく言えないけど、その感覚を旦那さんに伝えたら

「・・・それ、すごいね」

さすがに苦笑い。

すみません、ずうずうしいですよね。

 

明るい中では何とも思いませんが、姿の見えないぬくもりの中では

ちゃんとドキドキ恋してますよ(笑)

 

うーん、つまるところ、自分の迎える40歳を受け入れられていないってことかしらね・・・

新緑がきれいで、泣ける。どうしてこうも人は欲に塗れるのか。

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どうしてこうも恐恐としてしまうのか。

世界中のあっちでも、こっちでも。

 

目に見えないからウィルスが怖いのか。

目に見えるからこそ、人のなすことが怖いのか。

 

数年前、虹を見かけることが減ったなと思った。

しかし最近はよく、空に虹がかかる。

しかも大きなアーチの、

色のはっきりとした。

 

虹はエンジェルサインだって聞く。

雨(困難)が止むって、その先の未来を信じて進めって。

 

困難なことが多い表れか。

困難な時も俯かずに前向きに。

そんな人にしか無言のサインは届かない。

 

でも私は、虹がきれいだよって周りの人に伝える人でありたい。

今日も明日もあなたがいて、私がいる。

 

例えば、虹が黒から始まるグラデーションでも

きっとそれはそれで綺麗だと思うんだ。

 

紅葉はカラフルなほど美しい。

若葉も、枯葉も、欠けても折れても、すべてが混ざり合ってこの複雑で感情豊かな美しさがあって。

 

自分はこの世界を彩るほんの小さな一枚で

いなくても変わらないのかもしれない。

だけど、必要な一枚だから。

 

お願い。

過ぎた母の日から、そんなことまで考えちゃったの?私・・・

こんにちわ、虹恋です。

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母の日が終わりました。

母の日が制定されているおかげか、この日の近辺はやはり母についてちょっと思いを馳せるものです。

 

女性は結婚し出産すると「ママ/お母さん」「〇〇ちゃんのママ/お母さん」と称号が与えられ称号呼びとなり自分の名前が消えてくものです。

 

私は、自分の母親のことを「お母さん」と呼んぶよう育てられました。

母は、結婚出産してもずっと働いていました。お母さんである時間は半分だったかもしれないけれど、嫁ぎ先の苗字で呼ばれる事に今までの自分が消えていくようだったそうです。そんな中49歳にしてオーストラリアへ。人生初のホームステイです。

そこでみんなの口から告げられる自分の名前に、輝きと誇りと、そして〝自分”を取り戻したのです。

そんな経緯で母親の方から「名前で呼んでほしい」と言われ大学生の途中から彼女のことは名前呼びなのです。

 

それは同時に彼女の母親としての卒業だったのでしょうか。

 

母であるより私でありたい。

 

その気もちはとても理解できる。

 母をママと呼ぶキャラではない私が、なぜ自分の娘にはママと呼ばせているのか。

 そこには「母親になりたくない」とい気持ちがある。

「母」であった自身の母親を見て、私はあぁはなり切れないと思った。

家庭の中で母であるより、妻であり私でありたいと思ったのだ。

 

母親とは偉大な存在である。

 

それが私の抱く母。

 

未熟な私は、そしてそんな母を目指そうとしない私の心持の現れが「ママ」呼びなのだ。

 

ママ、そして時々 母。

 

「〇〇の母ですが」

 

その切り出しに違和感しかない8年目の母親です。

 

そして何より旦那さんが私を名前で呼んでくれるから、彼女のママでいられる私。

娘に求められ、旦那さんに「私」を見てもらい、仕事で褒められ満たされる。

 

一人でも幸せだと思っていた結婚に興味もなかった独身時代。

一人では手に入らなかった幸せが確かにここに存在していて。

 

偉大な母たちが切り開いてくれた道を感謝したい。

こんな私でもママとして、時に母として存在を認めてくれることに。

 

そしてパートナーが自分をいつまでも変わらず愛すべき相手として見てくれること。

この世に生まれ、両親がプレゼントしてくれたもの。

人生を識別するもの、それが名前。

自分自身でさえ、自分を識別するのに刷り込まれている名前。

妻、母、親 いろいろと呼称は増えていくけれど、人生が続く限り失ってはいけないのは名前だろう。

 

名前に込められた想いを想像しながら呼びかける。

新しい話題の一つに。

その人の後ろにご両親や人生が。

人を傷つける軽い一言や行動、知れば減るかもしれない。

嫌なニュースが一つ減るかもしれない。

 

結局人は人の間で生きていて、周りの人が平穏でないと自分も心豊かにいられない。

 

人はみな母親から生まれてきた。

みんな同じなのだ。

 

この、世界の片隅で

こんにちは、虹恋です。

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「孫育」なる言葉があります。

まぁ、大家族全員で子育てしていた時代とは違い、共働き世帯が増えるにつれ核家族化し離れていった自身の子供家族から孫を預けられて世話をする。古い育児知識をアップデートする大切さなどが取り上げられ、今よりずっと窮屈な時代と世間の中で苦労し終えた子育てが再び、違う波となって押し寄せるわけです。

 

そうした中で、当然といえば当然の成り行きなのかもしれないが。

成長した孫の教育に口を出す。

 

線引きはどこだろうか。

仕事なら注文先はベビーシッター。

大きくなれば塾やおけいこへと注文先だって移行するわけで。

 

おじいちゃんおばあちゃんとしての両親になにを望むのか。

それは、「受け止める腕」だ。

人生の先輩だからこそ大きく受け止められる、その安心できる腕の中。

そこが、消えていく。

 

親はいつまでも親で、子供はいつまでも親の子だ。

親はいつでもわが子を正そうとするし、諭そうとする。

でも、孫は子の子だ。

子に対して口を出すのは親にさせてくれないか。

 

孫育は親のやり直しの子育てではない。

 

こんな風に考える私を親が怒るのだとしたら、親は子育てに失敗したと思うのだろう。

だが、私は人生に満足していて、気持ちは前を向いているし、失敗した人生だなんて思っていない。

 

私のこの愛しい人生を「失敗」だなんて言ってくれるな。

この世に産んでくれたことを感謝している。

この、世界の片隅が私の人生の真ん中だ。

のほほんと生きてきた代償なのか。恥ずかしながらのアラフォーです。

アラフォーになってやっと「社会人」としての自覚ってやつを思い知った。
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こんにちは、虹恋です。
みなさま、どの様に自粛してこのウイルスとの戦いに参戦していらっしゃいますか?

日々このウィルスの罹患者数を読み上げる声を聞き始めると、どこか意識が遠くなるような気がいたします。
どこか遠くのなんだか別世界の話がうわさ話のように纏わりつくような、煩わしいのに消えてなくならない。
今やウィルスがウィルスらしく働いている気がいたしますが・・・

少し前まで
研修医が、
年配の夫婦が、
卒業した大学生が、
会食や旅行で。

そんな話がしわ寄せで子供の休校に繋がりため息が出ていたけれど。
「うつるかもしれない」から「うつすかもしれない」そう意識を変える話が出て、
社会人としての責任というものを本当の意味で理解したように思う。

研修医が何してる、というより。
学生気分が抜けない、というより。
自分はまだ若くて元気だという違う自信を持つお年寄り、というより。

何より私たちには「社会人」という立場を軽く考えてきたのではないだろうか。

割と多用される「社会人」という言葉だが、社会に出るという事への責任をそう感じていない。
なぜなら社会に出さえすれば、属せてしまうから。

ちっぽけな自分が、社会に確かに存在しているということ。
自分のとる行動には責任がつきまとっていること。
責任を果たすということ。

今回、たくさんの失敗が起きた。
私たちはきちんと反省し、問題に立ち向かっていかなくてはならない。

ほんと、40歳近くになるまで「社会人」としての自覚に気が付いてなかったなんて
恥ずかしくて若い子たちに言えたもんじゃないけど、「大人」がこれじゃその背中を見てた若い子たちが気が付かなくてもそれが普通だったかもしれない。

人を責めるのは簡単で。
でも、負が負を連鎖するのは断ち切らなければー

私も、あなたも、あなたも。
上を向いて、前を向いて、笑顔で息をしよう。
生きていくんだから。
この、世界で。


【静岡県】島国日本も世界と繋がってきた。歴史が片田舎に"異国情緒”を生み出した。浜松にはやっぱりブラジル人。

こんにちは、虹恋です。

 

思い起こせば、あれは娘が2歳直前のこと。

国際線がタダのうちにとハワイへ出かけた時。

日本でもアサイーボウルが流行り初めてて。

「本場」「本場」と口にしたあの日。

母、私、娘と3代に渡りアサイーボウルに心を奪われた。

3泊5日の旅だったが、毎朝、そして最終日に食べ納めとアサイーボウルを食べたものだ。

 

それから6年。

相変わらず私たちはアサイーボウルが好物だ。

自分で作ったり、お店で食べたり。

 

と、そんな日々を送っていた私たち。

普段は使用しないスマートインターを目指して車を走らせていたら、

突如現れた「アサイー」の文字。

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「え?」っと2度見。

バックミラーでもガン見。

のちにググってみても新しいのか出てこない。

 

・・・めっちゃ気になるし。

なんでって!!!

潰れた和食屋の、

外観そのままに、

大通りから1本入った田んぼの端に、

手書きの「アサイーボウルの張り紙!!」

 

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はい。

行ってみました。

営業時間が書いてない!

しかし、一応「OPEN」の文字。

 

「誰かのおうち」的な引き戸を開けて中に入ると

 

「カウンターで注文してください」の文字。

 

うぅ・・・メニューがないし。

ちらっと中を覗いてくと、ブラジル人カップル2名と、カウンターにブラジル人の綺麗な女性1名。

こちらは見るけど、反応(声かけ)なし。

 

おずおずと近づくと、なぜか客の若い男の子が近寄ってきた。

あれ、お店の人だったのか?と思いつつ、

カウンターにメニューを発見。「日本語のメニューはこれね」と男の子。

なんと、カウンターの店員さん日本語ができない。


 

結局はお客さんだった男の子が片言の日本語で通訳してくれて、もともと頼む予定だったアサイーボウル¥1600を注文。

追加料金なしで、ヨーグルトの味が選べたり、フルーツの要望とかいろいろ聞いてくれる結構いい店。・・・日本語出来ないのに大丈夫か。

 

結局買い出しに行っていた社長さんが、普段は通訳、料理と対応しているらしい。

「今から作るから少し時間がかかる」

そう言われていたけれど。

 

まだ全然わかってないカウンターの女の子の対応で全然料理の手が進まないの。

思ってたより割と来たお客さんは全部ブラジル人。

来るたび来るたび話が盛り上がって、全然料理来ないの(笑)

外国時間~♪

食事ちゃんと採った後に行ってよかった。子連れの場合は要注意よ!

 

やっと来たアサイーボウル

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うん、外国ちっく。

味はおいしい!

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結構量あったけど、私と娘でペロリと食べました。

 

つくづく思ったけど、ハワイで食べたアサイーボウルは日本人受けする見た目だったな。

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ここのお店は、ほかにムースやフルーツメニューがあったけど、見た目からは「おいしいのか?」と二の手をふんでしまう。でも、美味しいっておすすめされて、今回のアサイーボウルを食べた限り美味しい予想がつく。

次回はぜひフルーツメニューを試したい。メニューは大体¥600~900円程度だった。

 

 

ブラジル人の経営する、赤ちゃんからお年寄りまで客の9割がブラジル人の、

故にポルトガル語が飛び交い、普段とは違う時の流れる場所。

 

ここは本当に浜松の片田舎なのか・・・

 

ともあれ、アサイーっていうのはブラジル人にもよほどなじみの深い食べ物なんだなぁと思って。

調べてみれば、アサイー発祥の地はむしろブラジルだった。

 

コロナで渡航なんて夢のような時代になってきてしまった。

そんな中、こんな風に外国気分を味わえるなんて!なんて素敵な場所。

 

意外に店舗もあるらしい。

機会があれば、ぜひどうぞ。

東名三方原スマートインターから車で5分程。

駐車場は10台は止めれそう。というか満車にはならなさそう。