過ぎた母の日から、そんなことまで考えちゃったの?私・・・
こんにちわ、虹恋です。
母の日が終わりました。
母の日が制定されているおかげか、この日の近辺はやはり母についてちょっと思いを馳せるものです。
女性は結婚し出産すると「ママ/お母さん」「〇〇ちゃんのママ/お母さん」と称号が与えられ称号呼びとなり自分の名前が消えてくものです。
私は、自分の母親のことを「お母さん」と呼んぶよう育てられました。
母は、結婚出産してもずっと働いていました。お母さんである時間は半分だったかもしれないけれど、嫁ぎ先の苗字で呼ばれる事に今までの自分が消えていくようだったそうです。そんな中49歳にしてオーストラリアへ。人生初のホームステイです。
そこでみんなの口から告げられる自分の名前に、輝きと誇りと、そして〝自分”を取り戻したのです。
そんな経緯で母親の方から「名前で呼んでほしい」と言われ大学生の途中から彼女のことは名前呼びなのです。
それは同時に彼女の母親としての卒業だったのでしょうか。
母であるより私でありたい。
その気もちはとても理解できる。
母をママと呼ぶキャラではない私が、なぜ自分の娘にはママと呼ばせているのか。
そこには「母親になりたくない」とい気持ちがある。
「母」であった自身の母親を見て、私はあぁはなり切れないと思った。
家庭の中で母であるより、妻であり私でありたいと思ったのだ。
母親とは偉大な存在である。
それが私の抱く母。
未熟な私は、そしてそんな母を目指そうとしない私の心持の現れが「ママ」呼びなのだ。
ママ、そして時々 母。
「〇〇の母ですが」
その切り出しに違和感しかない8年目の母親です。
そして何より旦那さんが私を名前で呼んでくれるから、彼女のママでいられる私。
娘に求められ、旦那さんに「私」を見てもらい、仕事で褒められ満たされる。
一人でも幸せだと思っていた結婚に興味もなかった独身時代。
一人では手に入らなかった幸せが確かにここに存在していて。
偉大な母たちが切り開いてくれた道を感謝したい。
こんな私でもママとして、時に母として存在を認めてくれることに。
そしてパートナーが自分をいつまでも変わらず愛すべき相手として見てくれること。
この世に生まれ、両親がプレゼントしてくれたもの。
人生を識別するもの、それが名前。
自分自身でさえ、自分を識別するのに刷り込まれている名前。
妻、母、親 いろいろと呼称は増えていくけれど、人生が続く限り失ってはいけないのは名前だろう。
名前に込められた想いを想像しながら呼びかける。
新しい話題の一つに。
その人の後ろにご両親や人生が。
人を傷つける軽い一言や行動、知れば減るかもしれない。
嫌なニュースが一つ減るかもしれない。
結局人は人の間で生きていて、周りの人が平穏でないと自分も心豊かにいられない。
人はみな母親から生まれてきた。
みんな同じなのだ。